文章を書く仕事をしていていつも不思議に思うのは、
「自分が書いた文章なのに、自分が一番わからない」
ということです。
例えば自信満々で書いた原稿なのに、編集者から原稿が真っ赤になるほど赤字を入れられたり(あ、ちなみに原稿を添削されることを、専門用語で赤字を入れられるといいます。紙で書いていた時は文字通り赤いペンで修正されていたからです)、逆にイマイチだと思った原稿が絶賛されたり……。
特に赤字を入れられるのは、何年ライターをやっていても精神的に応えるもの。
指摘されれば確かにそうだよなと、ダメなところが自分でもよくわかる。
それを、なぜ納品する前に気づけないのか?
経験を積めばいつか完璧な原稿を書いて赤字も一才なくなると思っていたのですが、それはどうやら机上の空論のようです。
自分の文章は、自分が一番わからない。
これはもはや、人類普遍の真理といえるかもしれません。
ではどうすればいいのか?
答えは一つ。
他人に見てもらうことです。
よく記事はライター一人が作り上げていると勘違いしている人がいますが間違いです。
必ず編集者という立場の人がいます。
Webだとディレクターというのでしょうか。
いずれにせよ、ライターが書いた原稿を客観的に見る立場の人です。
(つまり赤字を入れる人ですね。)
こういう人がいないと原稿は完成しません。
ライターが書いたものが、誰のチェックもなく、いきなり掲載されるメディアは、おそらくありません。
あったとすれば、それはメディアではなくブログ。
独り言のようなもので、公的な記事とは呼べません。
つまり、記事というものはライターと編集者の二人三脚で生まれるものなのです。
この会社を立ち上げ、大勢のライターと一緒に仕事をするようになり、他人の原稿をチェックするようになって、特にそう思います。
まあ、他人の原稿の粗(アラ)の、よく見えること!
しかも、そういう時って、つい上から口調になってしまうんですよね。
つい、自分の方が優れているのだと勘違いして。
でも、途中でブルブルと頭を振って「いやいや、立場(というか視点)が違うだけで、もし自分が逆の立場だったら同じように誤字脱字をするはず。調子に乗るな!」と心の中で自分をいましめています。
しかし、なんでそうなるんですかね。
先日も一緒にランチした弊社ライターチーム「きいてかくクルー」のNさんとも、「他人の原稿のダメなところはよく見えるのに、自分の原稿はまったく見えないのはナゼな〜ぜ?」と話したばかりです。
で、ここから先は私の勝手な推論ですが。
苦労して書いたものは、無碍(むげ)にはできないからじゃないですかね。
ひいき目に見ちゃうというか。
自分の娘が「芦田愛菜にそっくり」と信じて疑わない親バカと同じです。
では、そこは冷静に、「いや、全然似てないじゃん。どこが芦田愛菜やん」と真顔で考えればいいのでしょうか。
そんな親はなんか寂しいのと同じで、原稿もダメなところばかり見えすぎていたら、きっと最後まで書けないと思います。
「あ、ここもダメ、これもダメ、もう俺には書く才能ゼロ!」みたいに。
一流の作家ほどこうしたスランプに陥るのもわかります。見えすぎているのでしょう。
芥川龍之介とか川端康成は、こんな感じで自殺したのかもしれませんね。
いやー、一流でなくてよかった(威張るな!)
恋は盲目、ではないですが、見えないことで、とりあえずなんとか書き上げる、そんな本能が人間には備わっているのかもしれません。
そして、翌日読んで「なんだこの駄文は!?」と唖然とするか、編集者から真っ赤になって帰ってくる……。
そんなことを永遠に繰り返しながら、われわれライターは日々文章を量産しているのです。
でもそれが、楽しくあり、恋しくもある。
まさに物書きの性(さが)といえるかもしれませんね。
(おやびん)
※冒頭のイラストはこの記事を読ませてchat GPTに作成させました。
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